上野学園ホールの歴史

『文化の殿堂を広島に』

1971年ごろ、広島唯一の大ホール広島市公会堂の老朽化により、一流のアーティスト達が広島で公演を行わないという状況になり「国際文化都市として恥ずかしい」などの不満が強まりました。
「本格的なホールがほしい」という声に応えて、1972年10月23日にオープンした郵便貯金会館には数々の著名な音楽家が相次ぎ来演し、音響効果のよさが評価されました。
また、ホール以外にも宿泊施設・宴会場等総合施設としても運営されました。

1973年11月2日中国新聞掲載記事
1973年11月2日中国新聞掲載記事

『ホール廃止の危機』

1989年、広島市中央部に新館を建設することが決まり、同時に「1都市1会館」の原則や施設の老朽化から郵便貯金会館は廃止される方針が示されました。
しかし「ぜひ残してほしい」などの要望が相次ぎ、多くの署名も提出されたことや、当時の郵政大臣だった深谷氏の助力により、宿泊施設を廃止し現会館を新会館の別館の形で残し、内部を改築してホールを存続させることになりました。

『再び訪れる存続問題』

1993年にメルパルクホールとして新装オープンした後、日本郵政公社から「2007年3月31日をもって郵便貯金ホールを廃止する」と発表がありました。
廃止の理由としては、ホール単体での黒字運営が見込めない、老朽化により数年内に約5億円の改修工事が必要、の2点があげられました。
県合唱連盟、広島交響楽協会などの文化財団と住民は「広島の芸術文化の拠点であり納得できない」と「存続を願う会」を結成し署名活動を始めました。
また、興行団体も署名運動を開始し、地元経済4団体は広島市に適切な対応を申し入れしました。

2006年4月6日中国新聞掲載記事
2006年4月6日中国新聞掲載記事

『存続決定』

当時の藤田広島県知事は「文化・芸術の向上や広島都市圏の拠点性を維持し高める上で、ホールの機能存続は欠かせない」と判断し、広島県が買い取る方針を固めました。
こうして2度の存続危機を乗り越え、現在は上野学園ホールとして新たな歴史を築き上げています。

2006年7月29日中国新聞掲載記事
2006年7月29日中国新聞掲載記事

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